まえがき
『(略)善は本性に含まれ、内面的な成熟の出発点にある。本性は成熟することによって、無制約者に開かれ、開花に至る。これらのことを、孟子は、次のような段階を設定して、最も体系的に示した(尽心下二五)。』
リスト
- 【善】 欲すべきものが「善」である(可欲之謂善)
- 【信】 善を自分のうちに有する(実際の行いにそれを働かせる)と、人は「真正」に道徳的となる(有諸己之謂信)
- 【美】 その道徳的な真正さが充実されれば、それは「美」である(充實之謂美)
- 【大】 さらに、外に光り輝くようになると、それはその個人の「大(立派さ)」である(充實而有光輝之謂大)
- 【聖】 その上で、その人が「これを化する」(その人の本性として自発的に刷新される)と、それは「聖」である(大而化之之謂聖)
- 【神】 聖であって「不可知」(努力の痕跡さえ消え、自然なものになる)になると、それは「神(目に見えない霊力)」の次元と同じになる(聖而不可知之之謂神)
あとがき
まえがきを含めて、フランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける 孟子 vs. カント、ルソー、ニーチェ』(講談社、2017年)より。
カッコ内の漢語部分は、『孟子/盡心下』(Wikisource)からの引用です。本書では「聖而不可知之謂神」と「之」が一つ削られていました。
まえがきの「無制約者」について同書からの引用を付します:
カントは、他の何ものからも条件づけられない自律した概念を無制約者と呼び、具体的には、自由、不死、神を挙げている。
リストは本文の内容を盛り込んで作成しました。聖、神あたりは微妙に意訳混じりかも。
この段階の意味あいを、わかりやすく解説してくれていた部分も引用します。
出発点の前の段階では必要とされていた努力が、頂点に達し、完全な成熟にまで達すると、その反対物、すなわち自然なものに変わってしまうということだ。ちょうど、見習い修行に長い間専念すれば、最後には才能が花開いて、おのずと事が進むようになるようなものである。
(「自然なもの」に傍点)
- タイトル: 道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)
- 著者: フランソワ・ジュリアン(著)、中島 隆博(翻訳)、志野 好伸(翻訳)
- 出版社: 講談社
- 出版日: 2017-10-11